昔のある日の出来事

いつのことか正確には覚えていない。でもあれは寒い日の夜だった。中学生になった初めての年だったと思う。机に向かって何か書物を読んでいた。ふと、足元にある電機ストーブに目をやった。ストーブのオレンジに熱せられた熱線を見詰めながら、ある考えでいっぱいになった。人はなぜ生きるのか。目の前に横たわるこの世界はなぜ存在するのか。ある人はこれらの疑問についてこう言うに違いない。考えるだけ時間の無駄であると。限られた人生に与えられている時間を、決して回答を発見することのできない問題に費やすなど正気の沙汰ではないと。人生は楽しむためにあると誰もが考えている。果たしてこの問いに意味があるのだろうか。意味はあるのだ。こう考える人がいるからだ。哲学的なこれらの問いに自らを浸すことに自分の安楽を見出していると。これらの哲学的問いは崇高な香りを醸し出し自らの問いにより、この問いを無視し続ける他の人より優越的な立場にいるかのような錯覚を生み出しているのだ。私から言わせればこの問いに関するその感情は否定的にとらえざる得なかった。理由は他者への力関係を意識した小さな世界へのとらわれに過ぎないからなのだ。それは動物世界の弱肉強食の世界と同じだ。今の社会に蔓延している悪の法則である、「金は力なり」、「力は善なり」の考え方を満足させる考えなのである。ここで私は断言する。哲学の結論は観念の遊戯に過ぎないのだということを。解決不可能な迷路に迷い込み、結局は欲求不満に陥る。そして、考えるという行為のみに満足を見出し、その行為の事実に自分の優位性を意識しようとするのだ。