テレビの持つ功罪

「百聞は一見にしかず」という言葉があるとおり、映像の与える影響力はかなり大きい。映像と言葉が一緒に垂れ流されるテレビに至っては多くの人の心を大きく振り回すことになるのではないか。情報源としてテレビやラジオ、新聞、雑誌、最近ではインターネットがある。私は極力、テレビという情報源は利用しないことにしている。この情報元は意図的に利用しようとしないと思わぬやけどを負うことになる。テレビをつけっぱなしにすることで知らず知らずに洗脳されテレビ製作者側の意図にまんまとのせられることになりかねない。というかそのよう仕向けられていることが多いのではないか?映像を見て我々はその報道なり、番組を信じることが多い。またそこで権威あるコメンテータの意図を知らずして語られる言葉を妄信してしまう。ほとんどの情報は検証不可能というか、検証をしようとはたいていは思わない。そのため真実はなんのその、結局はその情報を何の疑問も持たずに受け入れてしまう。私はテレビ大好き人間だった。いや今でもたぶんテレビが好きなのだろう。しかし、テレビを見ていてどんどん情報を妄信してしまう自分、知らず知らずに影響されてしまう自分を知ることになり、愕然となるのだ。テレビだけではなく、映画、音楽、いろいろと好きなものがあるがそれらにも良くも悪くも影響されている。当然、周りの人たちにも影響される。まあ、自分の外側の世界、環境というものに影響されてしまうわけだが、その影響力を私は軽視してきた傾向があった。実は、それが全てだと言っていいのかもしれない。外の世界を一切遮断すれば、気が狂ってしまうかもしれない。だとしたら、環境はとてつもなく大事な事柄である。よい音楽、よい自然、よい文学、よい映像、よい映画、よい人たち、よいよいづくしの環境を選択すべきではないかと。悪はなぜ存在するのか?欲望が諸悪の根源だという。確かにそう思う。でも欲望のない人間はいない。肉体を持つ限りその欲求を満たそうとする。欲望は否定できない。しかしよいことだと思わない。苦しみの原因にもなる。欲望が満たされず、欲求不満なるからだ。そんなものはなければよいと思うこともある。ある人は欲望がないなんて詰まらないという。そういえばそういう気もする。それは想像で言っているに過ぎない。欲望を消せないのだから、それがなくなった心境なんてわかるわけがない。木になっている実は食べてみなければ味はわからない。ここで、話をテレビに戻すと、テレビが垂れ流す情報はたぶんに人の欲望を満たそうとしているように感じる。要は人の欲望を誘導して、増殖させて、もっとテレビを見させようとしているのだ。そうすれば、欲望を満たそうとして人は苦しむことになる。なぜなら、欲望は全て満たされることはないだろうから。いろいろと自分勝手に妄想や欲望が膨らみ現実とのギャップからノイローゼになる人もいるかもしれない。ある人は気が狂って犯罪に手を染めるかもしれない。今言っていることはかなり極端な例だろうが、小さな火は大火に繋がるのだ。世の中が狂っている理由はこのテレビの功罪を無視できなような気がする。欲望を善とするような風潮を作ったのもテレビのような気がする。なぜなら、大多数の人たち(たぶんテレビを見ない人を探すが大変だろうと思う)はテレビの功罪知らず(または知っていながら)それを見て、たいていは知らず知らずに影響をされるのだ。それはよい影響なのかどうかも気にせずに。