無知の知

ソクラテスの言う「無知の知」は知識に慢心している愚かな人間への警告して発せられた。我々は人に対して簡単に不敬な態度をとりうる。それは単に好き嫌いからであるかもしれないし、単に人の噂話からだったりする。あの人はああなのよとか、あの人は評判がすこぶる悪いとか、そういった見聞に対して、疑問を持たずに受け入れる。そうすることで一定の先入観で、その人を見て判断を下すことになる。周りから認められていない人間など価値はない、挨拶などする必要もない、無視無視、やだやだ、と言ってますますその人への嫌悪感を育てていく。人間は悪い方向には簡単になびく傾向があるようだ。自分が間違っていると思えても結局は悪の華ほうにどんどん惹かれていくわけで、人に不敬であることはは決してよくないのだが、よしとしてそういうことを結局してしまう。誤解が誤解を招くわけだが、ある日それが分っても結局はそこから離れることは敢えてしない。損得勘定で動かないとバカバカしいと思えるのだろう。いじめというのはそういう発想の元で行われるのではないか?私は人の悪心のメカニズムというものを体験的に知っていると思う。誰かを悪者にして、自分を相対的に持ちあげて優越感に浸ろうとする。それは弱肉強食の世界、力が正義といった世界観である。そこには先入観や誤解、優越感、虚栄心、嫌悪感といった人間特有の悪心がついて回る。弱肉強食といった世界は動物の世界では当たり前であるが、人間はそれにもっと複雑な心理が絡んでくるというわけである。最近、私はこの悪心の原因について考えている。そこには「自分はよく知っている。あの人ことを」という慢心がある。情報元はたいていは「噂話」だったりする。そこにはおかしな共感というものが発生して、仲間意識を育てるようだ。お互いの共通した「敵」「悪者」をつくるのである。そうすることで自分達を優位にして持ち上げるのだ。慢心は人をおかしくする。人への尊重や敬意をなくすものだ。おれは何でも知っている。おれは偉い。おれはあいつよりも優れている。それは全て相対的な見方に過ぎない。私は人間の慢心が「無知の知」の精神がないから生じるものと思う。私はこの世の中ことをホンのわずかことしか知りえない。情報源については検証不可能であり、とりあえずそれを頼りするしかない。ただし人の手を介してくる情報は決して「絶対」ではありえないのだ。また、関心の方向は偏っているし、関心のないことは知識として残らないのである。記憶はかなり曖昧なものだろう。時間が経つと風化してしまうものだ。要はほとんどのことは何も知りえていないのと同じなのである。それをさも何でも知っているといった風な態度を示そうとする。全くの虚栄である。これらのことををしっかりと理解する必要がある。また、知識はそれを活用してみないことには知らないということと変わらないのではないか?頭で知っていても、経験として知っていなくては、実際のところはよく分らないのではないか。私は経験というものを非常に重視する。もちろん経験しても残らないこともあるだろうが、心が動かされる経験は一生残るだろう。私たちは日々経験する。よい経験を積むには、自分が日々考え、よい選択を常にするようにすることだと思う。