自分という不思議

自分はなんで自分なんだろう。なんであの人ではなかったのか?といった不思議な感覚に私は時々おそわれることがある。そして、こうも思うのだ。なんて、私は自分の理想からかけ離れているのだろうと。理想の自分像というのをたいていの人は持っているだろう。しかし、現実はその理想とかけ離れていることが多いように感じる。もしも今の自分が理想の姿という人がいるなら、その人はとても気の毒な人だといえる。なぜなら、今が理想であればそれ以上向上進歩する必要がないからだ。自分が進歩した、成長したと感じたときに、そこに本当の意味での幸福感がある。よって自分が成長するという楽しみを自ら摘み取っていることになる。反対に自分が堕落したと感じると自暴自棄になって苦しくなるものだ。人間は完全なものではないから、進歩する、成長する余地が残されている。そして、そこには無上の悦びというご褒美があるのだ。しかしながらその成長するというチャンスは、自分が自分からかけ離れていると感ずる「理想」というものを強くもつかどうかでめぐってくるものだ。自分とは何か?自分はなぜこの世界に存在するのか?周りの世界は自分とどういう関係をもつのだろうか?そんな疑問というか、感覚を、中学生ぐらいのときの、ある一時に強く持ったことを覚えている。その記憶は妙に生々しい。それはある寒い夜の日の出来事だった。そこには何か自分がとてつもない発見をしてしまったような感覚があり、一種の悟りのような感じだった。自分を自分以外の目で見たような感じだった。自分はナンなんだ?自分の何のために生まれてきたんだ?そんな問いを繰り返しつつ、自分探しの旅を30年も続けている。今もまだ解らない。そう考えてる自分はナンなのだろう?そのような問いに意味があるのか?前の日記にその問い意味の考察を述べたことがある。そう思うことで自分を持ち上げる云々と。しかし今となってはそんな考察は実に表面的なものに見えてくる。その問いを発しているときの自分の心理状態の方が実に興味深いものである。そう問いへの答えではなく、そういう問いを発すること自体が意義深いものに思えてくるのだ。この問いは一生かかっても解らない可能性が高い。しかし問いを発することは自由にできるのだ。そのとき「いくら考えてもわからない問題がある」という発見がある。まさに「無知の知」である。「無知の知」は自分や周りに対して謙虚な気持ちにさせる。高慢な態度、姿勢から遠離することができる。この「無知の知」は人生の幸・不幸、成功・不成功、成長・堕落といったものと深く関わっていると思う。実に重要な発見だ。幸福や成功や成長への架け橋だと思う。