自分の発見1

自分とはなんだろうという問いを私は20年間を発し続けてきた。人は自分が分らないから迷い、苦しみ、不幸になる。本当の自分が発見できれば、悩むことはない、なぜなら、進むべき道を失なわずに迷うことがなくなるから。分らない、無知である、それが人を不幸にする。分かるということは単に頭で理解するということではない。体験的に実感としてわかるということだ。客観的に頭で理解することは単に知識であってそれだけで人は幸福になれわけではないだろう。幸福になるということは、一切の心配や不安から解放されて自然と心から安らげる状態にあることだと思う。その場限りの満足感でも快楽でもない。よく欲望を満たすことが幸福であるとする人がいる。欲望とは自分のみが満たされることを前提とした考えだと思う。そこには自分さえよければという心情が根底にある。幸福とは自分の幸福が全体(人も自然も)の幸福につながるものであるはずだ。なぜなら人は一人きりでは絶対生きていけるものではないからだ。自分の周りが不幸になって自分だけが幸福になれるわけがないではないか。欲望を満たされないと人は不満や愚痴が出るものである。世の中に欲望という自分さえよければという考えがはびこればより多くの人が不幸になるだろう。他人の迷惑などどこふく風、自分の欲望のためには人を殺しても傷つけてもお構いなしという世の中になる。このように人が不幸の道に、知ってか知らずか進んでしまうのは、仏教で教えるところの六根煩悩があるからだ。私たちは肉体の快楽に汲汲として自己を見失う。しかし肉体は無情なもの、有限なものだ。心がそれにとらわれればどうなるか?心は無限なのである。そこには必ず大きなズレが生じ、苦しむことになるだろう。欲望を持つのは心である。欲望は無限に広がるが、有限の肉体はその欲望を満たすことは絶対にないのである。現実的に絶対に満たされることのない欲望に人は振り回され、苦しむのである。肉体に振り回される理由は、肉体を自分だと考えることにある。本当の自分はなんだろうか?それは、肉体ではなく、自分とは何だろうという問を発しているこの自分の心なのではないか?