愛に生きる勇気をもとう

巷に「愛」という言葉が溢れているが、ほぼ全てといっていいほど男女の関係をいっていると思う。ある人は「愛があれば全てが解決する」とか「愛は勝つ」といっているが、男女の愛についていっている限りそういうことはないはずだ。男女の愛は「愛憎の愛」である場合がほとんどであり、愛と憎しみが裏表の関係にある。お互いの欲望を満たすための愛?といってよい。自分の思いが満たされないと憎しみに転化するものであり、愛憎劇における事件は陰惨を極めるものが多いようだ。いわゆる苦しみを伴う狂気の愛に発展するのだ。愛とは本来そういうものではない。本来の愛の意味は無償の愛、見返りのない愛をいうのだ。が、この世界にそんな愛が存在するのだろうか?本来の愛(これからは単に愛と呼ぼう)では全ての問題は解決するだろう。しかし本来の愛に生きるというのは極めて難しい。我々は何らかの果実を求めて日々生きている。肉体がある以上欲望は否定できない。しかしこれらの思い(結果を求める、欲望)が全ての不幸の原因であるといったらどうだろうか?心ある人たちはそのことに気がついている。しかしながら、世間という荒波の中、愛の実践を諦めてしまう。自分の欲望に負ける、欲望を満たされない自分を哀れに思ってしまう。自分の考えが支持されない周りとの孤立感、そのことへの恐れ、現実とのギャップに悩んでしまう。愛の実践には実に勇気が必要なのだ。言葉(概念)はあっても現実にはなかなか難しいのが愛である。強引に愛を実践してみればよいのだが、人は自分を認めてほしいと思うものだ。愛の実践が即、人の評価に繋がらないと実践も難しくなってしまうのが人情である。愛の実践は「心」から「報い」を求めずにただ「純粋」に人の「幸せ」を願い、それを実践することだ。しかし、なかなか人は分ってくれないとか、なんで自分勝手な人たちに自分を犠牲にして愛を実践できるだろうと思ってしまう。愛は自己犠牲だというが、確かにそうだろう。自分の時間を費やせばそれは自己犠牲である。しかし人は不幸の根源である「欲望」に自己犠牲をしている。愛に生きよう。勇気を持って。愛に生きる人は、強く、健康で、美しく、輝いているではないか。愛の実践は真の幸福を約束する人類への贈り物である。人間は本来そういうふうできているものだから。