自我から離れる

仏教に苦集滅道という言葉がある。苦しみの原因(集)を滅する方法(道)という意味だ。我々の人生は苦しみの連続だ。古代インドではこれを生老病死の苦しみと呼んだ。生きていくこと自体の苦しみ、また老いて、病気をし、死んでいくことへの不安、悩み。人生はこの生老病死の苦しみから離れることができないように仕組まれている。しかし、なんでだろう。誰だって苦しみなど味わいたくないはずだ。それが人生だったらそんな人生は意味のあるものなんだろうか?人生を楽しみたいとは誰だって思っているはずだから。この「楽しみたい」が実はみそだったりする。ただ楽しい日々を送ることだけで人は本当に満たされるのかということである。人生とは「自分とは何かを発見する旅」であるといえないだろうか。自分の本質はこの肉体にあるのではない。なぜなら肉体は朽ち果てていつの日にかは宇宙の塵と化してしまうから。では自分の本質とは。人の本質をある人は魂だとか霊魂だというが、私にはそのような言葉では納得できない。この自分という存在を認識できる自分こそが「自分という本質」だと人もいるだろう。これはなかなか的を得ているのではなかろうか?思う自分こそ自分という本質であれば、思いの中に自分の全てがあるとも言える。思うことはかなうという人もいる。思い、念はエネルギーだからだ。思いの中で人々は自分の願いを実現してしまうものだから。この宇宙、自然には人間と同じような思いというものが存在するのだろうか?宇宙の心、自然の心があると私は思う。その心こそが本来の心のあり方を示しているのではないか。人間と自然と調和、宇宙と同一感は、この心に触れることで得られる。そして本来は人間も自然から生まれているのだからその心を本来は持っているし、感じることはできるはずだ。自然はわれわれに生きるための環境を見返りを要求することなくただで与えているし、その純粋に与えるという心こそが自然の心である。私たちは日々自分の都合のみを考えてこの自然の心を失ってしまったようだ。自然の心に帰ったときに自分は小さな自我から離れていくような感覚になる。この自分自分といっている自我から離れたら自然の心に帰っているのだろう。