物事を曲解しないには

仕事でコンピュータのソフト開発の仕事をやっていると、いやが上でも人の書いたドキュメント(主に仕様書)を読まざるえない。今まで20年そういった人の書いたドキュメント類を読んできたが、まず一度でしっかり理解できたためしがない。特別なルールがあって書かれてあれば理解しやすいかもしれないがたいてい個人の裁量にまかされて作成されている。こんなときに人に聴いてみても、分ったような分らないような釈然としなかったりすることがほとんどだ。しかしながらそんな状況でも仕事をこなさなくてはならない。納期は迫ってくるし、しかたなくよく分からないまま仕事を進めるしかないのである。そんな焦りと甘い考えとちょっとしたプライドからドキュメントの曲解が始まる。この曲解は人から指摘されない限り、または人に指摘を受けたとしても痛い目に合わない限り気がつかなかったりする。自分で捻じ曲げてしまった解釈から全く客の要望とは違ったものが出来上がったりする。全て作り直し、納期に遅れ甚大な違約金を支払わされるという不幸な結果に行き着いてしまう、これは実に深刻な問題だ。はてはてこの曲解、誤りはについては、不思議なことに人のものは分るのだが自分のものには気がつかない傾向にある。ということは自分自身を他人の目で見ることができれば自分の曲解、間違いには気がつくのだろうと想像できる。が、それはとても難しいことだ。焦ったりして自分を見失なったときなどは全く不可能である。ではどうしたらよいのか、あらゆる状況下において自分を客観的に見ることなど可能なのか?やり方はいろいろ考えられる。ノートをつける。これは以外といい方法。文章化することが客観視を促すからだ。この文章を第三者が読んでも分るようにノートを記すことだ。文章の書き方のコツは、客観的な事実や明確になっていることと、自分の想像、仮説、解釈とを分類して記していくこと。ここで自分の解釈や考えについて自分自身で評価してみる。この発展形として自分を客観視するための日記をつけることだ。自分自身は振り返って客観的に見ことを書く。客観的な事実とその原因の追究、そこから自分への改善点を提示していくような日記がいいのではないか。人生は課題の連続だ。今回はこの第三者の目で自分を見るという課題を人のドキュメントを読むという行為の中で頂いた。人から指摘されて自分の過ちに気づくのではなく自分自身のことに自分で気づく。これは自分に厳しくなければなかなかできることではない。自分自身につっこみを入れてみるのもいいかもしれない。ただこれは自分をいじめることとは違う。自分を強くするため、自分を成長させるためにやっているのである。